なぜ民主党から立候補したか?
なぜ私が民主党から立候補したか?というお話ですが、まず、自分の履歴をお話するとわかりやすくなるかな、と思いました。
昔、官僚であった時、私は霞が関で「型破り官僚」と呼ばれていました。
官僚として色々わかってくると、官僚の悪習を変えたいと思うようになってきました。「天下りのような古い制度はやめたほうがいい。」そう訴えて動きましたが、一介の課長では根本的なことは何も変えることができず、不甲斐ない思いがありました。
そこで、私は一大決心をします。外から、圧力をかける形で霞が関を良くすることができないか。と思ったのです。
そして奥田経団連会長と話し合い、トヨタ自動車に移籍しました。トヨタでは財政や社会保障の政策アドバイスをしていました。
奥田氏が諮問会議のメンバーでもあったので、途中から私は「内閣府政策参与」を兼務し「竹中チーム」に入りました。
そこで、いくつかの改革は日の目を見ました。しかし、大切な改革ほど抵抗が大きく途中で頓挫していくのです。(小泉改革の総括は長くなりますので、別にお答えします。)
あまりに多くの複雑な問題をこのエントリひとつですべて解説できませんが、私は、「内閣府政策参与」という仕事を通じて、ある結論に達しました。
『官僚と政治家の癒着を断ち切らなければ、国民主導の政治は、決してできない』と。
そのためには、『政権交代』をしなければ、本当の改革はできない。
いくらなんでも自民党政権独占が50年では長すぎました。
そして、先日のブログで書いたように、私自身が、官僚、、政治家、企業の鉄のトライアングルの中にとらわれていたがゆえに、このトライアングルを『政権交代』で打ち破るのが自分の責務であると考えました。
だから、3年前、私は民主党から立候補する決意を固めたのです。
世の中を良くする為には、政権を取る可能性がある唯一の党である民主党で立候補する。それが私の決断でした。政権が取れなければ、机上の空論ですから、結局何もできません。
官僚であった時に、自分は中から改革する、という行動がどんなに難しいか、身にしみてわかりました。自民党の中に入り、自民党を変えようとしても無理なのです。
あれから、3年が過ぎました。
改革がスタートしなければ、日本も和歌山も大変なことになります。
官僚と政治家と企業の癒着を断ち切る「ほんまもんの改革」をまず和歌山から開始させて下さい。ガンガン先頭をきって突き進みます。どんなことがあってもやり通します。
私たちのために。
私たちの子供たちのために。
私たちの大切な人のために・・・。
信じられない政治に終止符を打つ。
そして、信じられる政治を創るために。