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2013年11月3日

イギリス労働党改革に学ぶ 6 社会民主主義を越えて

(吉瀬征輔著「英国労働党」、窓社、1997年)

 ブレアのニューレイバーに関して、このブログで紹介してきましたが、一朝一夕で大きな政党の路線変更ができたわけではありません。

 吉瀬征輔著「英国労働党」は、1964年からのイギリス労働党の紆余曲折を経た歴史的な変遷を解説しており、ニューレイバー理解のための参考になりました。

 1950年代から60年代の労働党は、「ケインズ主義的社会民主主義」と呼ばれる改革路線を取っていました。

 1964年の総選挙で、13年ぶりにウイルソンの労働党政権が誕生しますが、労働組合の左傾化により、所得政策と組合活動の規制に失敗します。

 そして、1970年の総選挙で政権を失い、その原因は、有効な経済戦略の欠如であると評価されました。

 その後、政・労・使の三者協調体制(コーポラテイズム)の主張を背景に、1974年の総選挙で労働党政権は復帰します。

 その一方で、労働党内では、左派が力を増していき、路線対立が公然化します。

 そして、1976年のポンド危機により、IMFの管理下に入り公共支出の激しい削減を受け入れた労働党キャラハン首相は「ケインズ主義の失敗」を認め、これ以降、「マネタリズム」的政策に転換します。

 つまり、景気対策では財政政策は使わず、金融政策で対応することになります。このように欧米先進国では、既に1970年代から、財政政策は景気浮揚には使ってきませんでした。

 余談ながら、日本は、第一次、第二次のオイルショックを乗り切り、インフレと失業率の増加が重なるスタグフレーションを経験しなかったため、かえって財政政策に依存する悪しき伝統をつくり、現在の1000兆円を超える借金の山を作りました。歴史の皮肉ですね。

 結局、キャラハン政権は、インフレ抑制のための所得政策を労働組合に反対され、1979年総選挙で倒れます。ケインズ主義的社会民主主義が退けられ、党内は、左派の社会主義路線に傾斜し、分裂と抗争の内乱状態に入ります。一部の社会民主主義派は社会民主党をつくって脱党しました。

 結局、社会主義派の左派的な政策綱領で戦った1983年の総選挙でも惨敗。1984年の炭坑争議でサッチャー政権に敗北した後、キノック党首が市場システムのメリットを公然と打ち出す1986年党大会以降、政策の流れが変わります。

 すでに、この段階で、「社会的公正と経済効率性の両立」という後の「第三の道」に通じるコンセプトが生まれています。そして、親ヨーロッパ政策と核政策の現実的修正により政権担当能力を示します。

 そして、さしものサッチャー政権も人頭税問題による1990年の地方選挙の惨敗の責任を取って辞任、メージャーが後継者となります。しかし、そのまま、最高の条件で戦ったはずの1992年の総選挙でも労働党は4回連続の敗北を喫します。

 ここで、ようやく労働党は「中産階級」を味方につける決断をし、「労働階級の党」から「市民の党」への脱却を図ります。

 ここからは、ブレア回顧録の紹介で書きましたが、生産手段の国有化をうたった「党規約第4条」の改訂と労働組合の党内での決定権を弱めるガバナンス改革が行われて行くのです。

 二大政党の歴史の長いイギリスで、しかも労働組合がつくった階級政党の労働党の歴史は特殊なものですから、そのまま日本政治に適用することはできません。

 しかし、ブレアのニューレイバーが生まれてくるにも、大きな歴史的必然があったように思えます。

 今の日本の民主党は自信を失い、呆然と立ちすくんでいます。

 しかし、教育や子育てを重視するチルドレンファースト、すべての市民に居場所と出番をもたらす新しい公共など消費者、納税者の立場に立った政策の流れは間違っていないと思います。

 さらに、「経済的な安全保障と分配」だけではない「競争と富の創出」や、「がんばった人が報われる社会」への明確な政策転換、また、女性の社会的地位を高めるため、「国会議員選挙における女性のクオーター制導入」など、多様な価値観を認める穏健なリベラル保守の理念の下に打ち出して行くことで、新たな活力を獲得することを目指すべきだと確信しています。 

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