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2013年10月2日

中村屋のボース インド独立運動と近代日本のアジア主義

(中島岳志著「中村屋のボース」、白水社、2005年)

 このブログで、北海道大学の中島岳志准教授の著書「リベラル保守宣言」、「パール判事」の二冊を紹介してきました。

 「リベラル保守宣言」にはまってしまい、中島准教授に興味を持って他の著作も読み始めました。

 「パール判事」では、これまで、判事の判決の引用を「つまみ食い的」に理解し、判事の絶対平和主義者の一面を知らなかった無知を思い知らされました。

 今回、「中村屋のボース」を読んで、インド独立運動の英雄「チャンドラ・ボース」と同じ独立運動家で日本に帰化した「ラース・ビハーリー・ボース」が別人であったことを知りました。

 インドの独立運動は、イギリスの厳しい弾圧によって取り締まられ、多くの運動家が逮捕、処刑されました。そんな中、大勢の指導者が国外に脱出し、外から独立運動を続けます。

 チャンドラ・ボースもビハリー・ボースもそのような指導者でした。

 大東亜戦争の終盤、日本政府と軍部がインド国民軍を支援します。インド国民軍の上位にあるインド独立連盟を最初に率いたのが、ビハリー・ボースでその後を継いだのがチャンドラ・ボースでした。

 だって、名字が同じですから、誤解しても、、、と言いたいところですが、やはり歴史に対する理解の浅はかさに恥じ入るばかりです。

 ビハリー・ボースは29歳の時に、イギリス官憲から逃れるため日本に来ます。そこで、インド独立運動への支援を求める活動を開始したものの、日英同盟によって、日本政府からも追われます。

 国外退去命令の最終日に、雲隠れし、新宿の「中村屋」を経営する相馬家にかくまわれ、窮地を脱します。その後、相馬家の令嬢俊子さんと結婚し、日本に帰化しました。

 その間の、ドラマチックなエピソードで有名になっただけでなく、ビハリー・ボースの独立への情熱とまじめな人柄から日本の政界、財界の全面的な支援を受けるようになりました。

 ちなみに、新宿中村屋の看板メニュー「インドカリー」はビハリー・ボースのレシピです。

 長年の日本での活動の後、インド独立連盟のトップとなりましたが、インド独立という目的のために、日本の帝国主義を是認したという批判もあります。

 インド独立運動家の間でのビハリー・ボースが日本政府寄り過ぎではないかという批判や、病気によって、途中でドイツに逃れていたチャンドラ・ボースと交代します。

 アジアの独立運動の中で、イギリスの帝国主義的なインド支配を批判する一方で、日本の帝国主義的な朝鮮支配や中国への不平等条約(対支21か条の要求)などを認めることは大きな矛盾でした。

 ビハリー・ボースは孫文の神戸高等女学校での「大アジア主義」演説「日本がこれから後、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか」(1924年11月28日)と同じ問いを日本人に突きつけます。

 「一つは西洋主義に従って、東洋の英国となり、人類の自由を奪ひ、而して圧迫し、自己の利益を計ること、、、他の一つの道は、日本が東洋主義、日本精神に基づいて他を幸福にすべく同胞民族を解放し、世界に於て偉大な日本になること」(「中村屋のボース」pp.232)

 ビハリー・ボースは「自分がインド独立のための拠り所とする日本が、目の前にいる朝鮮人にとっては紛うことなき帝国主義国家であることへのやりきれない思い」(「中村屋のボース」pp.220)を持ちながら、日本政府と恊働していたのです。

 中島准教授のおかげで、パール判事とインド独立運動の「中村屋のボース」、二人のインド人の実像と当時の時代背景を再確認することができました。

 半知半解の怖さも知りました。近現代史を謙虚に学ぶことの重要性をかみしめています。
 

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