基本的人権について考える
(樋口洋一著「いま、『憲法改正』をどう考えるか―「戦後日本」を「保守」することの意味」、「2013年5月、岩波書店)
今日で、150日間続いた通常国会が閉幕。
私は、予算委員会と経済産業員会に所属し、本会議も含めて何度も質問の機会をいただき、充実した国会活動ができました。
特に、マイナンバー法案は、民主党の実務責任者として、与野党の修正協議を成し遂げた上、成立できましたし、介護従事者等の処遇改善を目指す議員立法も提出しました。立法府の一員としてまさに、law maker の役割を果たせたと自負しています。
最終日に、私も関わった電気事業法改正案が与野党の政局的な動きで廃案になったことは残念でなりません。責任野党としては、どうしても通したい法案でしたが、自民党のしたたかな法案つぶしの動きに乗せられてしまいました。反省しきりです。(詳細は、「時効」になってからご報告します。)
そして、参議院選挙です。私は、冒険主義であるアベノミクスについては結果がすべてだと考えていますので、今、批判する必要はないと考えています。日本経済にとって、確かにリスクはありますが、成功してくれたら有難いではないですか。
むしろ、自民党の憲法「改正草案」(2012年4月27日決定)の問題点こそ争点にすべきだと思います。
私が、法学部で芦部信喜教授から学んだ憲法学の通説や国際標準からあまりにもかけ離れているからです。
現行憲法の前文には天賦人権説に基づく「人類普遍の原理」がうたわれています。
つまり、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」という部分です。
自民党案は、この「人類普遍の原理」をあえて削除しています。
1689年のイングランド革命での「権利章典」や1776年アメリカ独立宣言、1789年のフランス革命の「人および市民の諸権利の宣言」などの人類の長年の努力と英知に連なる原理を否定しているのです。
その結果、現行憲法で最も重要な条文とされている第13条の「すべて国民は、個人として尊重される」 という条文の「個人」を「人」に変えています。
日本近代の歴史の中で、「個人」という問題性が大きかったことを樋口陽一教授は次のように示しています。
「100年前の法制官僚小野梓は、『独立自治の良民を以て組織するの社会』は『一団の家族を以て其基礎とする社会』ではなく、『衆一箇人を以て基礎となす社会』でなければならぬとしている。」と。
そして、現行憲法が国民を「個人」として尊重した結果、農地解放ができ、労働基本権が認められ、男女の平等が制度化されたのです。
小林節教授は「『個人』ということは、一人ひとりの個性が尊重される。人と違っていてもかまわない。基本的に誰でも、『人としての尊厳』を最重視されるということだ。」(「白熱講義!日本国憲法改正」、2013年4月、ベスト新書」と改正案を否定しています。
あえて、「個人」を「人」に変える意味がわかりません。
さらに、自民党案は憲法第97条を削除しています。条文を示します。
憲法第10章 最高法規第97条 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのことのできない永久の権利として信託されたものである。」
「過去幾多の試練に堪へ」というのは、いかにも情緒的ですが、かえって、格調を高めているように思います。
この条文を削除するということは、あくまでも「基本的人権」をないがしろにするということです。
そして、最も重要な第13条の「基本的人権」を「公益及び公の秩序に」反する場合には尊重しなくても良いと改正しようとしています。
現行の条文はで、それは「公共の福祉に」反する場合となります。「公共の福祉」については判例が積み重なり、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものと解釈されています。
これを「公益及び公の秩序」とすれば、広範囲に基本的人権の制限が可能になります。「公の秩序」には明治憲法の「安寧秩序」と同じニュアンスを感じます。
そして、自民党案では第13条だけではなく、第21条の表現の自由や、第29条の財産権も「公益及び公の秩序」によって制限されるようになっています。
なぜ、基本的人権を軽視し、人類普遍の原理を否定するのか、私にはどうしても理解できません。