政党政治の行方―統帥権干犯問題に学ぶ
社会保障と税の一体改革法案の審議が、粛々と進められる中、突然、降ってわいたような政争により、三党合意が一瞬にして破棄されそうになりました。
昨日から今日にかけて、様々な動きはありましたが、結果的には、何とか三党合意を維持し、10日にも社会保障と税の一体改革法案が参議院で可決、成立する見込みとなりました。
その間、新発10年物国債利回りも、7月10日以来の0.8%台に乗せるなど、市場も対応に大慌てする一幕もありました。
しかし、何より、自民党、公明党、民主党の公党の約束が守られ、決められる政治が続けられることにホッとしています。
戦前の二大政党制は、1925年(大正14年)の護憲三派(立憲政友会、革新倶楽部、憲政会)の加藤高明内閣からスタートします。
1926年、加藤高明憲政会単独内閣になり、そのまま若槻礼次郎が組閣。1927年に、革新倶楽部と合同後の立憲政友会の田中義一内閣発足。
一方、野党の憲政会に政友本党が加わり、立憲民政党がスタートします。1929年に田中立憲政友会内閣が総辞職し、浜口雄幸立憲民政党内閣が成立しました。
浜口首相が狙撃された後を引き継いだ若槻内閣が倒れた後は、1931年に犬養立憲政友会内閣。そして、翌年の5.15事件で犬養首相が暗殺された後は、海軍大将斉藤実の挙国一致内閣となり、二大政党時代は終わりました。
その間、1928年には普通選挙法も施行されており、大正デモクラシーの下で始まった二大政党政治はなぜ、長続きしなかったのか?私たち、現在の政治家もよく考えてみなければなりません。
当時の民政党は協調外交、緊縮財政を主導し、政友会は強硬外交、地方分権を主張していました。
しかし、政策論争よりも党利党略の観点から、政権争奪に明け暮れ、国民の支持を失っていくのです。
特に、1930年にロンドン海軍軍縮条約を調印した浜口民政党内閣に対して、野党の犬養政友会は、軍部と呼応して「統帥権干犯」であると批判を強め、倒閣運動を起こしました。
すなわち、政府が海軍軍令部の反対を押し切って軍縮条約に調印したのは天皇の統帥権(陸海軍を指揮命令する大権)を犯すものであり、憲法違反だとしたのです。この論理は政党政治に基礎を置く責任内閣制の否定につながります。
そして、この時の中心人物は、政友会の代表である犬養毅と、軍縮条約調印後の第58特別議会で、統帥権干犯問題を盾に、民政党内閣を激しく攻撃した鳩山一郎でありました。
私たちからすれば、暗殺された犬養翁も、戦犯追放の後苦労して首相になった鳩山一郎も、共に立派な議会人であり政党政治の保護者であったようなイメージがあります。
その二人が、実は、政党政治の自殺行為を行っていたのです。政権争奪の党利党略のためには、政党政治そのものの否定をし、軍部の台頭を許してしまったのです。
私たちは、この経験を、今こそ噛みしめなければなりません。
党利党略のためなら公党間の合意も平気で破棄するような政治では、戦前の二の舞になってしまいます。
そのことによって、既成政党への信頼を失った国民は、当時の軍部に替わるものを望むかもしれません。
今回、何とか、崖っぷちで踏みとどまりました。
私たちは、今後も党利党略をいましめながら、「国会議員の定数削減」や「公債特例法案」、「マイナンバー法案」などを実現し、その上で、できる限り「近いうち」に正々堂々と総選挙を行って、二大政党による健全な政党政治を守っていかなければなりません。
私たちのために。
私たちの子どもたちのために。
私たちの大切な人のために・・・。
信じられない政治に終止符を打つ。