立憲主義について考える
(長谷部恭男著「憲法と平和を問いなおす」、2004年4月、ちくま新書)
今日は、憲法を考える時に、最も大事な「立憲主義」について書いてみます。
立憲主義とは、「人民主権とそれにもとづく代表民主制」を指すこともありますが、基本的には、「権力の分立や個人の基本的人権の尊重を通じた国家権力の制限」のことを言います。
「立憲主義」という言葉は、現在はあまり使われません。
おそらく、戦後、第1の意味の「国民主権」による民主主義が普及したから、「国家権力の制限」のことは考えなくてもよい、、、と考えられるようになったからでしょう。
前の通常国会の衆議院予算員会でも、安倍総理は「立憲主義は王様の権力をしばるためのもので、民主主義の国、日本では必要ではない」旨の答弁をされていますが、これは浅はかな理解としか言えません。
まず、戦争前の帝国議会では、「立憲主義」は常識でした。
帝国憲法の創設者である伊藤博文首相は、「憲法を創設するの精神」は「第一君権を制限し。第二臣民の権利を保護するにあり」と説明しています。1789年のフランス人権宣言第16条「権利の保障が確保されず、権力分立が定められていない社会は憲法を持つものでない。」そのものです。
この時、権利条項不要論を述べた森有礼文部大臣は、「天賦人権説」にもとづき、憲法に書かなくとも臣民は権利をすでに持っているとする先進的な立論をしています。
今の憲法論争に比べても、レベルが相当高い議論が行われていたのですね。
また、帝国議会の二大政党は「立憲政友会」と「立憲民政党」でした。どちらも「立憲」がついています。
国家権力を制限するという意識は憲法の要だったのです。
では、戦後の国民主権の日本では、国家権力の制限は不要でしょうか?
とんでもないことです。
ヒトラーはワイマール憲法の下で、民主的に選ばれました。ですから、今のドイツ憲法では、「憲法の敵には、憲法上の権利を保障しない」ことになっています。
民主主義だから、多数決で何でも決めて良いわけではありません。国民主権の下でも、民主主義がより良く機能するために、「国民があらかじめ自分の手をしばっておく」ことが重要なのです。
ですから、憲法の改正は単純多数決では行えないようになっています。これを「硬性憲法」と言います。
今、憲法第96条を変えて、議員の三分の二の賛成を改正の発議要件とするのを緩めようとの議論があります。
以上のような立憲主義の考え方からすれば、要件緩和はありえないことだと思います。
憲法学からは、改正規定は改正できないのではないかという学説もあります。
世論調査でも国民の大勢は96条改正には反対となっています。さすがに、帝国憲法以来の立憲主義の遺伝子が残っているものと安心します。